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【2025.11.17】(読書会)編著者に聞く『ジェンダード・イノベーションの可能性』
科学技術と社会の関係が複雑さを増すなか、ジェンダード・イノベーション(以下GI)は、研究・政策・実践の各領域に新たな視座をもたらす概念として注目されています。今回の読書会では、『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店, 2024年)の編者である小川眞里子氏、弓削尚子氏、鶴田想人氏をお迎えし、書籍が出版されてから1年の年月が経った2025年の現在、私たちがどのようにこの概念と向き合い、未来へと繋げていくべきかについて議論を深めました。
当日は、弓削氏の司会進行のもと、まず小川氏および鶴田氏より、GIの意義と最新動向についてプレゼンテーションをいただき、その後、事前に寄せられたご質問にお答えいただきました。さらに、参加者との質疑応答を通じ、現場で感じられている課題や期待について、多角的な意見交換が行われました。
本レポートでは、編者のお二人による示唆に富むご講演内容と質疑応答の要点を中心に、当日の議論を振り返ります。GIのこれからを考える一助となれば幸いです。
小川氏は、GIの視点から、「健康への権利」と「安全・尊厳への権利」という二つの人権に関する軸を中心に事例を紹介しました。これらの事例を通して、科学技術や社会の仕組みが性差や多様性を考慮することで人権擁護の方向に設計されることの重要性が示されました。
本講演ではまず、「ジェンダード・イノベーション」という概念の誕生について紹介がありました。
この言葉を提唱したのは、スタンフォード大学の研究者であるロンダ・シービンガー氏です。彼女はこれまで、科学技術は価値中立であるという通念が、歴史的事実に照らして検証してみると、いかに根拠希薄なものであるのかを、数多くの著作を通して明らかにしてきました。とりわけ問われたのは、「女性が参画しないまま形成されてきた科学技術は、本当にジェンダー平等と言えるのか」という視点でした。その問題意識の延長線上で生まれたのが、現代の科学・技術に対し、性差分析や交差性分析を取り入れることで、新たなイノベーションを生み出そうとするGIの構想です。
現在、40件以上のケーススタディが公開されており、講演ではその中から、とくに「健康」「安全」「尊厳」という観点で印象的な事例が紹介されました。
最初に取り上げられたテーマは、「健康であることの権利」です。
心臓病は長らく「男性の病気」と認識され、典型的な症状も男性を基準に定義されてきました。しかし実際には、女性の場合、胸痛ではなく「不快感」や「体調不良」といった異なるかたちで症状が現れます。男性の症状を前提とした診断によって、女性の心臓病が見過ごされてきた歴史がありました。こうした状況を変えるため、アメリカでは毎年2月の第1金曜日に赤い服を着て参加する啓発イベントが続けられており、日本でも東京・大阪で同様の取り組みが始まっています。
また、自動体外式除細動器(AED)についても、「男女別設計ではない」ものの、実際の使用率は女性の方が低い傾向にあり、身体的条件や操作性が影響している可能性があることが指摘されました。
次に語られたのは、医療従事者の立場から見た問題です。
医療分野では、長らく男性医師が多数派であった歴史があり、医療機器もそれに合わせて開発されてきました。その結果、手の小さい女性医師にとって操作しにくい機器が少なくありません。
実際の事例として、従来はレバー式だった医療器具を電動ボタン式に変更することで、操作性が大きく改善されたケースが紹介されました。また、内視鏡のコントローラーについても、短時間であれば問題なく使用できても、1日何十件もの検査を行う現場では、身体への負担が蓄積し、熟練医師の離脱を招いてしまう現状が共有されました。とくに大腸がんは女性にとって重大な疾患であり、多くの患者が女性医師による検査を望んでいる実情を踏まえ、内視鏡開発側のさらなる配慮の必要性が強調されました。
GIが重視するのは、専門家主導だけの開発ではなく、市民・利用者が主体となる「共同創造」や「参加型研究」です。
「賢い消費者」の存在が鍵になると語られました。製品やサービスは「完成」して世に出るのではなく、使い手からの声によって更なる改良が重ねられ、よりよいものへと育っていく。その過程に、これまで周縁化されてきた当事者の視点が不可欠である、という考え方です。
具体例として紹介されたのが、「安全を最優先にルートを提示する移動支援アプリ」です。速さや安さではなく、「安全に到達できること」を最優先に設計されたこの技術は、インド、東南アジア、アフリカ、中南米などで広く活用されています。
一方で、こうした技術の恩恵はスマートフォンの所有率に大きく左右されており、地域によっては女性の3人に1人しか端末を持てない現状も報告されました。技術と平等の関係は、機器へのアクセスそのものとも密接に関わっているのです。
最後に取り上げられたのは、公共空間におけるトイレの問題です。
「トイレに行きたいときに行けない」という経験そのものが、安全や尊厳を脅かす人権問題であると語られました。鉄道駅などでは、男性用トイレに対して女性用ブース数は約6割にとどまり、慢性的に行列が発生しやすい構造があります。重要な指摘として、「トイレの公平」とは面積を平等にすることではなく、「使用実態に合わせた設計」であるべきだ、という視点が示されました。
さらに、生理用品の設置についても言及がありました。生理対応は個人の責任ではなく、公共的に支えられるべき健康インフラだという考えが示され、実際に三重県庁でナプキン設置が始まった事例が紹介されました。
講演の最後には、オーストリア・ウィーンの都市政策の事例が紹介されました。公共空間から少女たちが排除され、自宅に引きこもらざるを得なくなる状況を変えようと、遊び場や空間設計そのものを見直す取り組みが進められているという内容です。「おしとやかであること」を求められてきた価値観とは異なる、「外でのびのびと活動できる女の子たちの姿」を支える都市デザイン。その思想こそが、GIの本質的な方向性として語られました。
小川氏は、これらの事例を通して、消費者や市民が技術や制度に関わることの重要性を強調しました。GIは単なる理論ではなく、現実の課題解決に直接つながる実践的なアプローチであることが示されました。
鶴田氏は、日本国内におけるGIの動向や普及状況、そして課題について解説しました。政策、学術、産業の各側面から整理され、さらに日本での普及を阻む要因についても示されました。
はじめに、『ジェンダード・イノベーションの可能性』と、同時期に刊行された『無知学への招待』(明石書店, 2025年)の2冊の紹介がありました。GIの提唱者のシービンガー氏と無知学の提唱者のロバート・プロクター氏はパートナー関係にあり、この2冊は問題意識の根底が深く結びついていることが語られました。偶然ではなく、同じ問いを異なる角度から照らしていることが、近年まとまって日本語で読めるようになったことの意義が共有されました。
GIは、「男女の違いを強調する考え方」ではなく、むしろこれまで見落とされてきた身体的な差異や、その結果生じてきた不利益を見つめ直す営みであると説明されました。特に医療・薬剤分野では、長らく男性を基準とした臨床試験が行われてきた歴史があり、その結果、女性にとって適切でない用量や副作用が見過ごされてきた事例が紹介されました。
こうした「無自覚な標準」を問い直し、不均衡が生じている部分を是正していく。それがGIの本質であると位置づけられました。
日本国内においても、GIの概念は少しずつ政策の中に組み込まれつつあります。
第6期科学技術・イノベーション基本計画では、関連する用語が明記され、第7期計画への反映も検討されていることが紹介されました。また、研究資金を配分する機関であるAMEDやJSTにおいても、性差を考慮した研究開発に関するウェブサイトや報告書の公開など、基盤整備が進みつつある現状が共有されました。これにより、日本語で理解できる情報源が徐々に増え、学ぶ環境は整い始めていると語られました。
学術分野では、科学技術社会論(STS)や先端生命科学領域など、分野横断的にGIへの関心が高まりつつあり、学会や研究会、大学内シンポジウムでの議論が増えている現状が紹介されました。
産業界においては、経済研究機関による市場規模の試算発表をきっかけに、企業側の関心が早い段階から高まっていたことが示されました。とくに女性の健康課題に焦点を当てたフェムテック関連領域では、「その先にある新しい市場」としてGIの視点が語られてきた背景が共有されました。
一方で、GIという言葉自体は広がり始めているものの、「これによって何が実際に変わったのか」を示す成功事例は、まだ十分に共有されていない現状にも言及されました。
とりわけ日本では、「研究者の数」という問題と、「制度・文化」という基盤的な課題が依然として大きな壁になっていると指摘されました。女性研究者の少なさ、意思決定層の偏り、文化的慣行などが残るなかで、「知識のバイアスを問い直す」というGI本来の議論が、後回しにされがちであるという率直な問題提起がなされました。
こうした状況を踏まえて紹介されたのが交差性(インターセクショナリティ)という視点でした。具体的には、シービンガー氏らが英語で作成した、交差性の視点を取り入れたデザインカードツール「交差性デザインカード」の日本語訳、それを用いたワークショップの実践例、さらに2024年度から実施されている、東京大学・お茶の水女子大学・東北大学の三大学連携による集中講義や、若手研究者主導の参加型学習や実践を通してGIの理解と応用を促進する、若手研究者によるイニシアチブ「Blend」の取り組みなどが共有されました。
性差だけでなく、収入、文化的背景、外見的特徴などが重なり合う「交差性」という視点をデザインに反映していく試みは、まだ発展途上ではあるものの、今後の展開に大きな可能性があるものとして語られました。
最後に、今後GIという概念自体が普及して、それによって新しい成果として「これぞGI」と言えるような、成果が研究者からも企業からも生まれてくることで、さらに普及していくのではないかと期待で締め括られました。
ここからは、事前に参加者のみなさまから寄せられた質問と、それに対する登壇者の先生方のご回答をもとに、当日のやり取りを整理してお届けします。本レポートでは、議論の要点を抜き出し、できるだけ文脈が伝わるように再構成しています。
欧米諸国のジェンダー政策の変化や揺り戻しをふまえ、「日本独自のジェンダー戦略は可能か」という問いも投げかけられました。
弓削氏は、日本の文化的背景に根ざしたGIの事例として「トイレの音問題」を取り上げました。排泄音を消すための仕組みは、もともと女性の利用に特定されたわけではないものの、1980年代の商品化は女性の恥じらい概念と結びついて開発された。しかし2000年代に入ると、男性利用者にも配慮され、現在では「誰もが安心して使える環境」を目指して必要とする人が使えるかたちへと変化していると説明しました。
この事例は、日本社会の感性や文化に寄り添いながら技術が発展してきた好例であり、日本ならではのGIの可能性を示すものとして語られました。
「GIを市民にどう伝えるか」は、大きなテーマとなりました。
鶴田氏からは、抽象的な概念から説明するよりも「具体的な事例から伝える方が伝わりやすい」という提案がありました。特に、「交差性デザインカード」のような視覚的・体験的に思考できる素材を活用しながら、「どんな問いが立てられるか」を一緒に考えるプロセスが有効であると共有されました。
小川氏は、科学は中立で普遍的なものであるという一般的な認識に対して、「実際には、誰を前提に設計されてきたのか」という視点が重要であると指摘しました。GIとは特別な概念というよりも、「科学技術の恩恵が、どの人にも等しく行き渡るように見直す営み」であること、「いけないところがあれば、みんなで直していく」という姿勢そのものが大切であるという視点が共有されました。
GIを男性にどう広げるか、という問いについては、「ジェンダー=女性の問題」という固定観念を問い直す必要性が強調されました。
弓削氏からは、おもちゃ売り場、キッチン用品、日傘、化粧品、男性不妊外来などの具体例が挙げられ、「ジェンダーは、すでに私たちの日常に深く関わっている問題である」という視点が共有されました。
アメリカにおける政治状況の変化と、GIやDEI(多様性・公平性・包摂性)をめぐる状況についても言及がありました。
鶴田氏からは、トランプ政権後、急速的に、DEIやジェンダー、気候変動などに関連する用語の削除や研究費削減など、研究や言論の自由に緊張感が走っている現状が共有されました。
小川氏からは、GIの概念を提唱したシービンガー氏が在籍しているスタンフォード大学において、GIそのものに対する圧力はないように聞いていると、お話がありました。GIについては、アメリカ全体で広がっているというよりも、西海岸を起点に、現在ではヨーロッパで議論が活発に続いていることが紹介されました。
GIは、地域ごとに異なる文脈の中で揺れ動きながら発展しているテーマであることが浮かび上がりました。
事前に寄せられていた質問への回答に続き、当日は会場参加者とのライブ形式の質疑応答が行われました。参加者からは、ご自身の経験に根ざした問いが投げかけられ、議論はより具体的で切実なものになりました。この時間の中で、登壇した先生方から、GIに対する重要な視点が共有されました。その中から、一部ご紹介いたします。
鶴田氏は、「GIという概念に触れる機会を増やすことそのものに意味がある」と述べました。日常の中で繰り返し出会うことで、問いの立て方や物事の見方が少しずつ変わっていく。その積み重ねこそが、大切なのではないかという示唆でした。
小川氏は、GIを「違う視点で世界を見るための“訓練の素材”」と表現しました。「こういう見方がある」「別の見方をしてみよう」と促すことで、思考の選択肢が広がっていく。選択肢が増えることは、私たちの暮らしや社会をより豊かにする基盤であり、多様性が価値あるものとして認識される社会と深く結びついている、と語られました。選択的夫婦別姓のように、現在も社会の中で議論が重ねられているテーマを例に挙げながら、「選べる」状態をどう社会の中で実現していくかという視点と、科学技術の進展によって広がっていく可能性が語られました。
すぐに効果が現れるものではなくても、いつかどこかで「ひっかかり」として残り、誰かの行動を支える力になる——そんな力強いメッセージが届けられました。
弓削氏からは、GIは開発側だけの視点ではなく、「生活者としての私たち自身の意識」とも深く関わっているという話がありました。「こういう商品は買わない」「こんな商品があればいいのに」と考えること自体が、すでにGIの実践である。ものづくりに関わる人もまた生活者の一人であり、GIは専門家だけでなく、誰もが考え、実践することができる視点なのだという認識が共有されました。
問いを共有する場は、答えを揃える場ではなく、それぞれのなかに新しい視点を持ち帰るための場所なのかもしれません。ここに記した言葉たちが、読者の皆さまの日常のどこかで、ふと立ち止まるきっかけになれば嬉しく思います。
参考資料(当日登壇者から参加者にチャットで共有された資料)
・マンモグラフィ事例「Lily MedTech」
https://www.lilymedtech.com/product/cocoly-2/
・交差性デザインカード
・「ジェンダード・イノベーション」日本語版WEBサイト
・「Blend」note
『ジェンダード・イノベーションの可能性』
出版社:明石書店 (2024年刊行)
概要:「ジェンダード・イノベーション」とは、男女のステレオタイプに陥ることなく性差を知的創造と技術革新に組み込んでいくことで、新たな開発や発見を実現するという概念である。世界的な大きな広がりをもって推進されつつあるジェンダード・イノベーションの本邦初の入門書。
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